ダンサーがよく身に付けているadidasとPUMAですが、ブランドヒストリーが実に面白いので書き留めておきます。
この2つのブランドは、100年以上前のドイツを舞台に、壮絶な兄弟ゲンカから生まれたブランドなのです。
ダスラー兄弟によってこの2つのブランドは設立され今なお愛され続けています。
ダスラー兄弟
- 1898年にルドルフ・ダスラー(兄)が誕生
- 1900年にアドルフ・ダスラー(弟)が誕生
1920年に第一次世界大戦から帰還した、弟のアドルフ・ダスラーが靴屋さんを始め、数年後兄のルドルフ・ダスラーも参加し最初に「ダスラー兄弟商会」を起業します。
当初、共同経営がスムーズにいっていたのは2人の性格が正反対だったからと言われており、社交的で会話の上手だった兄のルドルフは営業やマーケティングを担当し、無口で職人気質の弟のアドルフ・ダスラーは靴の製作を担当し会社は上手く回っていました。
この当時の靴は主に足を保護する目的で履かれていましたが、ダスラー兄弟は機能性を追求し「スポーツシューズ」の市場を創り上げていきます。
1928年オランダアムステルダム五輪では多くのアスリートに靴を提供し「ダスラー兄弟商会」の名前を世界に轟かせ、1936年のベルリン五輪ではアドロフ・ダスラーの靴を履いた選手が金メダルを4つ獲得する快挙を成し遂げ『どうやら凄いスポーツシューズがあるらしい』と世界中がこぞって彼の靴を欲しがりました。
順風満帆にみえたダスラー兄弟商会ですが、第二次世界大戦が起こると兄弟に亀裂が入るようになります。
兄弟の確執
- 兄ルドルフは熱心なナチ党だったが弟アドルフと温度差があった
- 兄のルドルフだけ徴兵され弟のアドルフは靴作りのため徴兵を免れた(後に兄はアメリカの捕虜となる)
- 兄ルドルフが弟のアドルフの妻ケーテと不仲だった(ルドルフがケーテを愛してしまった説もあります)
兄弟の溝が深まり、1948年「ダスラー兄弟商会」は無くなってしまいます。
その後、兄ルドルフがPUMAを、弟のアドルフがadidasを創業し、1つの街に世界を代表する2つのスポーツブランド存在し、彼ら兄弟喧嘩は街を2分するにまで広がります。
この街では、相手の靴をみてから話す文化ができました。adidas派はPUMA派と口をきかない、PUMA派はadidas派とは口をきかなかった為です。
それゆえ足元を確認する癖が抜けないことから「首を曲げる街」と呼ばれました。
ここから更にadidasとPUMAの歴史を深堀します。
PUMAの歴史

兄ルドルフ・ダスラーは弟と決別後1948年にPUMAを創業します。
創業場所も実にユニークで、古巣(弟アドルフのadidas事務所)の川を挟んだ対岸にPUMAの事務所を構えます。
弟への対抗心が異常で『何が何でもPUMAがスポーツシューズの世界を席巻する』という熱意が感じられる事件がたくさん起こります。
PUMAのロゴや名前の歴史
元々は「ルドルフ・ダスラー」の名前からRUDAというブランドを立ち上げましたが、1949年に現在のPUMAに改名しています。
機敏に動くピューマの特性をシューズに取り入れ、アスリートを勝利に導きたいと考えていたルドルフの考えから名付けられました。

街を2分する戦いに発展
PUMAとadidasの兄弟喧嘩は街ぐるみの争いまで発展し、
PUMA vs adidas
- PUMAで働いている人とadidasで働いている人の子供は別々の小学校に通っていた
- 街に存在したサッカーチームもPUMA vs adidasの構図になった
- ペレ協定の締結と破棄(後述)
- アルミン・ハリー事件
アルミン・ハリーは1960年に行われたローマオリンピックの100mの金メダリストです。
元々はadidasのシューズを履いていましたが、adidas側に『シューズを履いてやるから金銭をよこせ』と持ちかけ断られます。
その話をそのままPUMAに持ち込むと、PUMA側は快諾、見事PUMAのシューズを履いて金メダルを獲得します。
しかし、表彰式にはadidasのシューズを履いて登場、彼は両社からお金を取ろうと企んでいました。
このことに激怒したadidas側は彼を永久追放し、縁を切ることとなります。
ダスラー兄弟のライバル関係に露骨に付け入った彼は、ドイツ選手連盟からも出場禁止処分を受け若くして引退しています。
その後詐欺に加担していたことも分かり彼は刑務所暮らしをすることとなります。
- ペレ協定
PUMAとadidasの経営がそれぞれの息子に渡った後もケンカは収まりませんでした。
アーミン(PUMAの息子)とホルスト(adidasの息子)が、1970年のメキシコワールドカップである協定を結びます。
それは当時人気絶頂であった、ペレについてです。
彼のスポンサー契約を奪い合っていたら、お互い破綻しかねないとして『ブラジルの神様、ペレには手を出さない』と取り決めをしたのです。
しかし、PUMA側が裏切りペレと単独契約をします。これによりadidasとの関係はより一層悪化しました。
PUMAはペレと結託してある作戦を実行します。それは、試合開始直前にペレが審判に話しかけスパイクの紐をわざと結び直すという作戦です。
最も人が注目する試合開始直前にペレが靴紐を結ぶシーンは全世界に放映され、PUMAの認知を飛躍的に上げることになりました。
※その後もPUMAとadidasは、サッカー領域、テニス領域、ファッション領域において苛烈な競争を繰り広げます。
PUMAの失速
元々アーミン(PUMAの息子)は気が短く癇癪持ちだったと言われています。
アシックスの創業者、鬼束喜八郎も『アーミンを説得するのは大変だった。彼に仏教のイロハを教えて宥めていた』と語っているほど、PUMAのアーミンを説得するのは難しいと言われていました。
そして1980年代に入ると、PUMAはアメリカで大きな失敗をしてしまいます。
アメリカで数十年に渡ってPUMAを販売していたベコンタという代理店の契約を打ち切ったのです。
『この会社にはPUMAを米国中に広めるほどの資金はなく、自分達の足を引っ張っている』とアーミンが勘違いをし、一方的に切り捨てたのです。
その結果アメリカで大きな販路を失ったPUMAは新たな販路を開拓することとなります。
そこで探し当てた販路が、Kマートと呼ばれる食品スーパーでした。これが大きな失敗となります。
PUMA衰退のポイント
- スーパーで売っているような靴を並べたくないと他の靴屋がPUMAの取り扱いをやめる
- PUMAがスーパーで売られている安くダサい靴と認識されるようになる
- 追い討ちをかけるようにナイキが台頭する
PUMAはブランディングに失敗したことに加え、薄利多売路線に舵を切ったことにより今まで築き上げてきたブランドイメージを無くしてしまいました。
このことがきっかけでドイツでもPUMAの経営が危ないらしいという噂が流れ、株価は暴落しアーミンは失脚してしまいます。
その後のPUMAの会計がめちゃくちゃだったことが明るみに出ます。粉飾決算や、金銭の私的流用が絶えず、アーミンはPUMAの経営権を完全に剥奪されます。
ダスラー家がPUMAから完全に手を引いた形になり、長きに渡るPUMA vs adidasはPUMA側が経営権を剥奪されることにより幕を下ろします。
adidasの歴史

「ダスラー兄弟商会」が消滅した後、1949年ダスラー兄弟の弟アドルフ・ダスラーがadidas起業します。
最初はADDASと付けようとしましたが、子ども靴の会社が商標を取っており、adidasと名付けました。(アドロフ+ダスラーで adidasです)
兄と違って弟のアドルフ・ダスラーは腕利きの靴職人でしたので、機能性を重視した靴作りに励みます。
adidasの3本線の歴史

adidasの象徴的なデザインといえば3本ラインのスリーストライプスですよね。
実はこれは創業者のアドロフ・ダスラーの考えによって生まれたものです。
元々は靴を補強する為に、靴の側面に縫い付けられた補強材だったのです。
「ダスラー商会」の時は2本で補強しており、ライバルPUMAは1本で補強していたことから、『3本で補強したら文句を言われまい』と3本で補強したことからスリーストライプは生まれました。
現在でもその名残がありPUMAの靴の補強は1本ラインですよね。

元々は靴の補強の為に使っていた3本ラインですが、時が経つごとにデザイン的な意味合いが強くなってきます。
靴の色とストライプの色を反対色にし、一目で『 adidasのスニーカーだ』と分かるような工夫を凝らすようになります。
それはPUMAも同じで、機能性を追求すると共に、オリンピックやワールドカップでいかに目立つかを考えながら靴は進化を遂げていきます。
スーパースターとスタンスミス
1969年、adidasはバスケットボール向けのバッシュとしてスーパースターを販売します。
従来のバッシュよりも足首をホールドでき、革製で頑丈なためNBA選手から絶大な支持を集めることになります。
1971年にはスタンスミスを発売します。
スタンレー・ロジャー・スミスというテニスプレイヤーモデルとして発売されたテニスシューズでしたが、一般的なシューズとしても人気が高く、『世界で1番売れたスニーカー』としてギネス認定もされています。

サッカーの領域ではPUMAに遅れをとっていた adidasですが、この辺りからテニス、バスケ、大衆向けのおしゃれなスニーカーという路線にも販路を拡大します。
それにはホルスト・ダスラーと呼ばれる adidas創業者の息子が深く関わっています。
ホルスト・ダスラーの存在

ホルスト・ダスラーは adidas創業者のアドルフ・ダスラーの息子です。
5ヶ国語が話せる天才的な人物であり、マーケティングセンスが抜群で、世界のビジネスパーソンから一目置かれる存在でした。
adidasが世界40カ国以上に関連会社を持つスポーツ用品メーカーに成長したのは彼の功績と言えます。
また、ホルスト・ダスラーは『スポーツスポンサーシップの父』として知られています。
FIFAやIOCは慢性的に資金不足に陥っており、開催が危ぶまれたこともあります。
そこでホルスト・ダスラーはスポーツスポンサービジネスを始め、コカコーラやマクドナルドらをスポンサーとしてスポーツの業界に招き入れたのです。
※昔は観客収入しかなかったFIFAにスポンサー収入をもたらしました。
今でこそ当たり前のスポーツスポンサーですが、最初はadidasのホルスト・ダスラーのアイディアでした。
彼がワールドカップやオリンピックをビジネス化させた人物です。
その他にも、NBA領域に進出、ストリート文化への進出も彼の功績です。
RUN-D.M.Cとadidas
1980年代初頭、 adidasはアメリカのストリート文化に着目しシェアを広げるようになります。
当時のアメリカでは
- ナイキがシェアを奪ってきたこと
- PUMAが薄利多売路線で失敗したこと
- 新たなマーケットの開拓の必要性があったこと
上記理由からadidasは是が非でもアメリカでのマーケットシェアを奪いたいと考えていました。
また、タイミング良くアメリカのニューヨークではB-boy達にadidasを着用する者が現れ、スーパースターの頑丈さやジャージ生地とBreakin'の相性の良さから認知が高まっていた時代でした。
そして1986年、アメリカの大人気HipHopグループRUN-D.M.Cが『My Adidas』という楽曲をリリースします。(誰にも許可を取らずに販売しました笑)
通常であれば著作権問題で裁判を行い、損害賠償を取る流れになるはずが、adidasは違いました。
RUN-D.M.Cのライブに招かれたダスラーら経営陣は、RUN-D.M.Cの若者に対する求心力を見抜き、その場でスポンサー契約を結びます。
新たなマーケット開拓に彼らの力が必要だと感じたadidasはRUN-D.M.Cの力を借りて急速にシェアを拡大します。
裁判をして損害賠償を取るより、RUN-D.M.Cにadidasを着用してもらった方が得だと判断したadidas経営陣のマーケット感覚には感嘆します。

adidasのロゴの歴史

adidasにはいくつかロゴが存在しています。
1949年に作られたロゴは見ての通り、サッカーのスパイクをイメージしたもので、サッカー界には広く浸透しましたが一般の人には普及しませんでした。
1971年に作られたロゴは今でも使用されており「adidas originals」のロゴとして使用されている三つ葉(トレフォイルロゴ)マークです。
現在ではファッション性を追求したウェアに使用されます。
月桂冠(げっけいかん)と呼ばれる月桂の木や葉から作られた冠をイメージしています。
↓↓月桂冠↓↓

1991年に作られたロゴ(スポーツパフォーマンスロゴ)は今でも使われていて馴染みがありますよね。
競技用のウェアで機能性に富んだ作りのものに使用されます。
2002年に登場したロゴは「グローブロゴ」と言って、三つ葉のアディダスとスポーツアディダスの中間みたいな立ち位置です。
中途半端な立ち位置だけあって、そこまで浸透しておらずググっても出てこないので画像を集めるのに苦慮しました(笑)
adidasのロゴですが、adidas originalsの三つ葉マークはファッション用、3本ラインのスポーツパフォーマンスロゴは運動用って解釈でいいように思います(笑)
以上がPUMAとadidasについての解説でした。
何となく着ているPUMAやadidasも色々な歴史があって今日に至ります。
少しでも理解して踊ってみると、雰囲気が出るかもしれません。
それでは、See you next time!!