Ather

【日本ストリートダンスの重鎮】江守藹について

2022-10-14

※当ページのリンクには広告が含まれています。

江守藹

江守藹(えもり あい)さんは、日本初のストリートダンスチーム「NESY GANG」を結成し、あのBeBop Crewの面々が師と仰ぐ、日本ストリートダンス界の重鎮です。

1948年に東京都で生まれ、高校生の頃から都内のディスコ(昔はゴーゴーディスコ)に出入りしていた筋金入りの音楽&ダンス好きで、19歳の時にイラストレーターとして仕事を始め、ペンネーム「エモリ・AI」としてデビューします。

その後、イラストレーターとして活躍する傍ら、「原稿料が入るたびにクラブで踊りあかしていた」と著書で書かれている程、ディスコと音楽とダンス漬けの日々を過ごします。

1975年には日本初のストリートダンスチーム「NESY GANG」を結成し、ダンスの黎明期に活躍し多くのダンサーに影響を与えました。

今回は、日本ストリートダンスの重鎮であり、オシャレでカッコいい江守藹さんについて書き留めておきます。

江守藹さんについて

江守藹さんの画像
https://streetdance-m.com/roots-of-culture-1/より

江守藹さんの経歴やダンス界にもたらした功績などを解説します。

プロフィール

1948年東京に生まれ、高校生の頃から都内の音楽喫茶に通い詰める程、大の音楽好きでした。

19歳頃からイラストレーターとして生計を立てており、原稿料が入るとすぐにディスコに出かけ大好きな音楽やブラックカルチャーに触れていました。

ブラックカルチャー好きが講じて、ヤングコミックにSoul特集やブラックピープル特集を掲載し、日本でのブラックカルチャーの普及にも寄与していました。

また1970年代以降はディスコ業界をけん引し、江守藹、ドン勝本、ニック岡井の3人をディスコ界の重鎮と呼ぶ人もいる程。

現在では、イラストレーターはもちろんのこと、音楽&店舗プロデューサー、DJ、ダンサーとしても活動し、若いダンサーの育成にも携わっています。

また、公益社団法人日本ストリートダンス教育研究所代表理事を務めストリートダンスの普及にも貢献しています。

20代から30代にかけて

1960年代、20代の江守氏は、イラストレーターの仕事をしながら、ディスコ漬けの日々を過ごします。

1974年の27歳の時には、自身が手掛けるディスコ「アフロレイキ」をオープンさせます。(1968年にオープンして一世を風靡した「ムゲン」と呼ばれるディスコをお手本に作られました)

このアフロレイキが日本ディスコの草分け的存在になります。

ポイント

  • ウエイターの殆どが黒人
  • 日本人の常連客はアフロ
  • 本格的なソウルフードを提供

1970年代の日本では画期的なお店で、来日するソウルアーティストは残らず「アフロレイキ」を訪れ、アメリカの黒人誌エボニーに日本の代表的ディスコとして紹介されたほどでした。

また、テレビやラジオなどのマスメディアとタイアップした最初のディスコであり、ラジオでは「今週のアフロレイキ」というコーナーが生まれ、今までのディスコとは比べ物にならないほどの集客に成功しました。

DISCの語源...「ディスコ」の語源となったのは、フランス語の "discothèque"(ディスコテーク)であり、マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味でした。1960年代に世界中で使用されるようになりました。

ディスコ協会の立ち上げ

兼ねてから交流のあったドン勝本らと共に、ディスコ協会を立ち上げるべく動き出します。

ディスコ業界が更に盛り上がると肌で感じ取っていたドン勝本氏が音頭をとり、江守氏、ニック岡井氏が中心となり活動をします。

ドン勝本氏の画像

1975年、ドン勝本を会長に全国ディスコ協会を設立します。(当時ドン勝本25歳、江守氏27歳)

1960年代に歌舞伎町のゴーゴークラブ「サンダーバード」にて用心棒として働いていたドン勝本と出会います。
いかにも反社のような容姿のドン勝本でしたが、リーダーシップがあり人を束ねるのが得意だったそうです。

今でこそダンスが当たり前の世の中になりましたが、当時は理解を得るのに相当苦労したんじゃないかと推測します。

この若さでこの行動力は、本当に尊敬します。

時代に名を残す人はバイタリティーもありますね!!

日本初のストリートダンスチームの結成

ディスコ協会を設立し、ひと段落着いた1975年、思いもよらぬオファーが舞い込みます。

クール&ザ・ギャング(アメリカの人気ファンクバンド)が来日することが決まり、彼らと同じステージで踊れというものでした。

著書の中では、

確かにダンスをするのは人一倍好きだ。だからといって自分がダンサーだなんて思ったこともなかった。

それに、他にもダンサーを集めろといったってそんな奴はどこにいるんだと思う。

黒く踊れ

当時の困惑ぶりが伝わってきます。

メンバーを探して回り、ニック岡井のN、江守のE、シュウメイのS、ヨシエのYでNESYとし、クール&ギャングのギャングを借りて、即席で『NESY・GANG』と名付けチームを結成しました。

これが日本初のストリートダンスチームとなります。

本番ではクール&ギャングと同じ舞台でダンスを披露し、舞台は成功を収めます。

ネッシーギャングの画像
https://speaker-stack.com/2021/01/08/culture_people/ より

ソウルトレインの日本進出

1975年、ディスコ「アフロレイキ」をオープンさせた時の右腕であった鈴木研三氏が主体となって、アメリカで人気だったテレビ番組『ソウルトレイン』を日本に輸入します。

このことがきっかけで日本の大衆にブラックカルチャーが広く浸透することとなります。

ソウルトレインの日本スポンサーはファッションブランドのJUNでした。

JUNは銀座のディスコ『J&R』を運営しており、そこで活躍していたDJが小林克也さんでした。

ソウルトレインが放送され、ソウルミュージックも広く浸透し、韓国ソウルの音楽と勘違いする人が激減したとか...

ディスコとダンスの普及

1976年頃、江守氏は社長との喧嘩別れで自らが作ったディスコ「アフロレイキ」を辞め、ディスコ協会の活動を本格化させます。

(ちょうどその頃、大阪からティディ団、広島からせっちゃん(山国節夫)らがディスコに足を運び、それぞれの故郷にダンスを持ち帰ったとされています。)

ディスコの普及の為に全国を訪れるのですが、東京との情報の差を痛感し専門誌『ギャングスター』を発行します。

これにより、全国にディスコ情報が拡散されることになります。

ここでの行動力も凄く、東芝EMI、パイオニア、日本フォノグラム(現ビクター)などから広告費を引っ張ってきます。
ビジネス的なセンスもピカイチです。

この頃には全国各地にディスコができ、深刻なDJとダンサー不足に陥っていました。

そこで会長のドン勝本氏と江守氏はDJの派遣サービスを行い、事業の幅を広げディスコの普及に尽力しました。

また、同時期にアメリカソウルトレインで活躍していたダンサー集団「Something Special」が来日し、多くのダンサーに衝撃を与えました。

ドン勝本氏、江守氏ももろにその影響を受け、ドン勝本氏は『オール・ジャパン・ソウルトレイン・ギャング』を結成し、江守氏は休止していたネッシーギャングを改め、『ネッシー・ギャング・スペシャル』を結成し、数々のコンテストに出場します。

オール・ジャパン・ソウルトレイン・ギャングは後にスペースクラフトと名前を変えます。
そこには、坂見誠二さんやTRFのSAMも所属していました。

ディスコの繁栄と衰退

1977年にサタデーナイトフィーバーが公開され、世界中にディスコブームが巻き起こります。

【ジョントラボルタ主演でディスコブームの火付け役となった映画。昔懐かしいサウンドも魅力的です。】

日本では『EMI世界ディスコダンス選手権』が開かれ、江守氏は審査員として参加します。(おそらく日本初の正式なディスココンテスト)

優勝は大阪のドンティディ団さん、団さんはそのまま日本代表として世界選手権に参加し、優勝を果たします。

EMI世界ディスコダンス選手権の九州地区の優勝者はSeijiさんです。
ドン勝本氏がSeijiさんをスカウトし、Seijiさんは東京へ進出しスペースクラフトに加入します。(BeBop Crew結成はこの5年後)

ディスコブームこのまま続くと思われていた1978年頃、未成年が被害になる事件や事故が度々起こるようになり、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取り締まりが強化され、ディスコ業界は衰退の一途を辿ります。

行き場を失った若者たちはストリートに進出し、1980年代前半にブームを巻き起こした竹の子族となり、路上でパフォーマンスをするようになります。

その頃にOld Schoolと呼ばれるストリートダンスが日本に進出し、日本でもストリートダンス第一世代が誕生し、新しいダンススタイルが続々と登場してきます。

九州での生活

ディスコブームが徐々に衰退する中し、ディスコ協会の顧問も辞めた江守氏は、ニコニコ堂の林氏の熱心な誘いもあり九州での生活をスタートさせていました。

ニコニコ堂はかつて熊本県を中心に営業をされていたスーパーマーケット。
社長の弟である林瑞華さんがナイトクラブやディスコの経営をされており、熊本と福岡のダンスシーンを席巻しました。

九州地区でのディスコ店舗プロデュースや、若かりし頃のYoshibow氏やSeiji氏へのダンサーの紹介など、九州でも多岐にわたる活動を行います。(Yoshibow氏にアメリカダンス留学を後押ししたのも江守氏です。)

CAEZERの画像

アメリカから帰国したYoshibow氏はNew York BeBop Crewを結成し、Seiji、Ricky、Kirkと4人でスタートさせます。

伝説的なチームの結成にも江守氏の助言があったのには驚きです。

その後福岡のクラブやダンスシーンの発展に貢献し、7年ほど滞在し東京に戻ることになります。

江守藹さんの功績

ダンスイベントソウルストリートの画像
SOUL STREET20周年の画像

黒く踊れ』の著書には最後の大仕事という章があります。

1999年アメリカのソウルトレインを日本に輸入し、ダンスや飲食が楽しめる空間を作る「ソウルトレインカフェ」を作る一大プロジェクトです。(惜しまれながらも2002年に閉店しています。)

開店にはドンコーネリアスも駆けつけ、、翌日にはスティービーワンダーも来店し、世間の注目を浴びます。

そこでオープニングのパフォーマンスを披露したのがBeBop Crewでした。

見事に大仕事をやってのけ、第一線から身を引かれます。

最近では自らの個展を開いたり、メディアにも出られ後輩の育成もされています。

ダンス界にはいくつものターニングポイントがあります。

ダンス界のターニングポイント

  • 日本初のプロダンスチームの結成
  • ディスコ文化の普及
  • ストリートダンスの普及

全てにおいて江守藹さんの活躍があったからこそ、今のダンス界があるのだと思います。

江守氏の著書

今回参考にさせていただいた本です。日本のストリートダンスの歴史が丸ごと分かる一冊です。
毎週末に東京のクラブでDJを続けている著者が経験をもとにアメリカ南部の魅力を語る。サザン・ソウルの故郷巡り、最新クラブ情報、アナログ専門のレコード店紹介などひと味違う旅行ガイドブック。

以上が、江守藹さんについての解説記事でした。

偉大な先輩がいたからこそ今のダンスシーンがあることを忘れてはいけません。

respectの気持ちを持ってダンスをしていきましょ🎵

それじゃ、See you next time!!

-Ather
-,